15年前の今日、阪神・淡路大震災がありました。
皆さんはどこで何をしていましたか?覚えてますか?
私は兵庫県三木市にある美奈木G.Cというコースで正キャディとして
働いていました。当時全寮制で部屋は1人1部屋。ネームプレートがあり、
白が寮内、ひっくり返して赤にすれば外出、枠外に赤は外泊、という
決まりになってました。色んな事があり、まじめに外泊届けを提出しての
外泊は馬鹿らしく思えた時期でしたので、外泊する時はネームプレートを
白のまま無断外泊をするようになりました(もう時効なので
ばらしちゃいます・・・)。そんなずるい事もこなれた頃、
地震が起きました。明け方5:46・・・。この前日から無断外泊を
していた私は小野市という所で、もちろん眠っていました。
眠ってはいましたが、左の方から地響きのようなゴーっという音の
直後に下から突き上げられたのか激しい揺れで覚えていませんが、
なんせ家中が歪んでいました。「地震!」とすぐに情報を見ようと
TVをつけましたが停電で映りません。もちろん部屋の電気もつかず
外の非常灯のようなのだけが点きました。幸い寝ていた部屋には
大きな家具など1つもなかったので倒れてきたり・・・
ということはなかったです。無断外泊していた私は
「やばい!点呼あるかも!」と思い、寮のセコムが切れる時間に
急いで帰りました。帰り道ではお墓などを作る石屋さんの石が
崩れ落ちており粉に・・・数少ない信号は全部点滅・・・。
いつも見慣れた景色も、異様な感じでした。寮にコッソリ帰りましたが、
皆ロビーにいたり廊下に出てきてたり、パニックになってました。
点呼はあったようですが、無断外泊していた事を知っていた友達が
「山本います!」と言ってくれたとか・・・(セーフ)。
その日のゴルフ場はクローズ・・・全員寮で待機になりました。
震災でお風呂に入れない人達の為にお風呂だけOPENしていたと
言ってたように思います。TVで断水、食糧不足、家屋倒壊・・・
だったので、何か出来ることはないか・・・私なら何が今欲しいか・・・
など考えてました。当時まだ携帯電話など持っていなくて公衆電話から
神戸の知り合いに電話を、してもしても混線していて全くつながらず、
4~5日後やっとつながった時は「生きててくれて良かった」と、
ホッとしました。何か出来る事はないか、何か欲しいものはないか・・・
と聞くと、こっちには道がふさがってて来れないから来なくていい、
との事。そう言われてもジッとしてられなくて、水をあるだけ車に積んで
向かったんです。いつも三宮に車でいく時は三木市の寮から山を2つ3つ
越えて行くのですが、その途中、神戸の夜景がとても綺麗だったんです。
でもその震災後、いつも見えていた夜景スポットから見えた景色は・・・
真っ暗でした。私が見た時はもう火災はおさまっていましたが、
ほんとに真っ暗でした。戦争も戦後も想像でしかわかりませんが、
そんな感じで悲しくなりました。 知人が言っていた通り、
道は結構手前から通行止めで、私は何も出来ずに寮に引き返しました。
寮の近くのコンビニや小売店には、おもち、カップラーメンなど
インスタント食品等、売り切れになっており驚きました。
昨日もTVで神戸新聞記者の実話を元にドラマ化したのを観ていました。
現場はすさまじい事になっていたんだな~と改めて思い、15年前の事を
思い出し又、長々と書いてしまいました。地震や火災の時の心構えというか、
備えといいましょうかそれも忘れてはいけないと思いますが、
人間の無力さ・・・人と人との助け合い、と言うと聞きなれた言葉で
サラ~っと流れてしまいそうですが、本当に大切な事だし
必要な事なんだな~と思わされた出来事でした。
私達プロゴルファーは試合会場にいると、選手なのでしてもらったり、
守られたり・・・が多くなります。例えば、自分達が打った球を
ボランティアの方々が拾ってくれたり、ギャラリーの中を歩きやすく
道をあけてもらったり、クラブハウスの入り口やロッカーの入り口には
ガードマンが必ず立っていてくれて選手以外を入れないように
守ってくれたり・・・それがマンネリ化してくると、
してもらって当たり前、守ってもらって当たり前・・・と
恐ろしい考えになりがちです。 選手の中には私達がいるから
トーナメントが出来る・・・と思っている人もいると聞きました。
しかも若い選手だけではなくベテラン選手の方もそんな考えの
プロがいると聞いて正直驚いたし、ちょっとショックでした。
今年は少しトーナメントを客観的に感じたり、人と人との出会いを
大切にしなさい・・・という意味もあり試合から離れる年に
なったのかな~とも思うようになりました。
もちろん、ツアーには復帰する気満々です。
今年のブログは、いちいち重たい内容になりそう・・・(笑)
最後まで読んでくださりありがとうございました。